2016年5月28日土曜日

健軍情報64-しずかな朝


健軍教会避難所は今週、
最後の引っ越しシーズンを過ごしてきた。
そして明日の朝、
避難者さんが、礼拝堂に敷かれた最後の布団をたたまれる時、
健軍教会避難所は、しずかに、幕引きの時を迎える。
 
はじまりは、4月14日の夜、
目の悪い高齢のご婦人を、迎えに走ったことだった。
その晩、10名ほどの近隣の方々に教会のホールでお休みいただいたが、
翌朝にはご自宅に戻られる方もあり、1日かけて教会の片付けを終えれば、
それでもう、ひと段落ついた心地であった。
16日未明
 翌夜の本震の後は、そうはいかなかった。
携帯の地震警報と隣接する健軍クリニックの防災警報が
けたたましく鳴り響く中、過呼吸でパニックになる方、
近くに住むお医者さんによる応急対応。
余震に揺れる、割れた食器だらけの建物の中から、
ブルーシートや毛布類を引っ張り出し、
キャンプ用のガスランタンや
近所の方が持ち出してきた灯油ストーブを灯して
近隣の方々と教会の駐車場で夜を明かした。
夜明けが近づいた頃、
アンテナケーブルを延長して、屋外にテレビを持ち出した。
阿蘇大橋崩落の映像を目の当たりにした時、
これからはじまるであろう日々を思って、
あたまがクラクラした。

しかし、まずはペットボトルの水でおにぎりの炊き出し。
教会の表に「避難できます」と張り紙をして、
近隣の方々のための、さしあたっての居場所づくり。
夜には、あるだけの寝具をひっぱりだして、
みなでわけあい、ホールでの雑魚寝となった。
40人くらいはおられただろうか。

その夜、徹夜で執務室の隅に机を確保して、主日の準備。
なんといっても、教会なのだから、
礼拝を通して、この時にふさわしいみ言葉を伝えること。
とにかく、近所の方々にも、教会の方々にも、
安全と安心の両方を提供する役割が、
健軍教会に与えられた使命だったし、
み言葉を語ること、食事の折に、みなのために祈る事も、
みな、そうした働きの一環だった。
4/24の主日礼拝
数日のうちに、水道が復旧し、
礼拝堂は、長いすを使って世帯ごとのスペースが区切られ、
3才から93才まで、30数名の方々が生活する
避難所としての空間が整えられて、
必然的に、礼拝はホールで行われることとなった。
応援物資に頼りながら、40名近い方々に、寝床と共に、
三食の温かい食事を提供しつづけること。
その働きのため、家を失った方々を含めて、
教会員さん方がフル稼働してくださった。
避難所は大きな家族のようになっていった
床の上でではなく食卓について、お茶碗とお箸を使って
仲間といっしょにご飯を食べることができたこと。
そのことは、この避難所で過ごした避難者さんたちが、
他の避難所の方々よりも、少しだけ早く
住宅の確保に動き始めるための、強力な環境要因であったと思う。
そして、この地域で住む場所を求めるとき、
その家探しの初動がわずかに早かったことが、
住宅確保の決定的要因であったし、
それでみんな、この地域に住み続けることが出来たのだった。
新居にて
いくつかの難しいケースもあったものの、
関係者の努力や調整で、みなの安心できる転居先が確保され、
最後の引っ越しシーズンを経て
健軍教会避難所は、強制的閉鎖ではない、自然的な避難者ゼロという、
静かな、そして幸せな最後の日を迎えることができた。
そのことの背景として、
この健軍教会の食卓の豊かさがあったこと。
そのための会員さん方の献身的な働きがあったことを覚えて、
記しておきたい。

連日の引越作業
明日の朝、健軍教会は、
その避難所としての役割を終える。
そしてそれは、この教会の新しい役割のはじまりとなるだろう。
 
しかし、しばしの休息もまた、
許されてよいだろう。
そして、お前は・・・。
 

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