2016年5月22日日曜日

健軍情報62-健軍にて

被害の大きかった江津湖畔 広木地区にて
被災後1ヶ月。
「熊本の人間は、みんな被災者です。
傷が深いか浅いか、それは人それぞれだけれど、
みんな傷を負っているのです」、と言い続けてきたけれど、
そして、確かに今も、そう思っているのだけれど、
ここにきて、人によって異なるその傷の浅さ深さが、
心に引っかかるようになってきた。
 
この熊本市東区健軍の一体は、熊本市の東端にあたる。
ここから東に向かえば、あと2000mほどで、
被害の最も甚大であった益城町に至る。
つまり、ここらあたりが被害の深刻度が大きくなるかどうかの境目で、
西に向かって歩けば、だんだん被害はまばらになり、
東に向かって歩けば、次第に傾いている家が多くなり、
壁が崩落した家が多くなり、そして益城町に入れば、
すぐに道路沿いの倒壊している家屋に目を奪われるようになる。
教会から東にむかって数百メートル
健軍教会のある一帯は、一応建物が立ってはいるので、
一見すると、ほとんど被害がないように見えるだろう。
でも、建物が立ってはいても、危険家屋と判断された物件は多い。
教会の隣家、裏手のアパートやマンション、みんなそうだ。

そしてそれらは、もはや使えない建物で、
住む人、働く人を失ってしまった家屋たちだ。
そこで働いていた人たちは職場を失い、仕事自体を失った人もいる。
そこに住んでいた人たちは、避難所や親の家や親戚宅に身を寄せながら、
仮設住宅に申し込み、不動産屋をめぐって空き物件を探している。
けれども、一瞬の判断に迷い、家探しに一歩出遅れてしまった人たちが、
この地域で、適当な物件に行きあたることは、もはや不可能といっていい。
益城で家を失った人たちが、
少しでも物件のある市内に転入しようと考えるなら、
まず益城町に隣接している東区のこのあたりが第一候補だし、
車社会になって少し寂れてきていたとはいえ、
電車1本で街まで出て行ける健軍一帯は、
便利で住みやすい地域なのだ。
避難者さんの住んでおられた教会裏手のアパートとマンション
このあたりは、もともと
三菱が巨大な飛行機工場の工員を住まわせるために宅地開発した地域で、
水前寺までだった市電を健軍まで延伸させたのも、
工員を工場まで運ぶ必要があった三菱だった。
戦後になって軍閥が解体されると、そうした工員住宅は、
今度は外地からの引き揚げ者住宅となった。
健軍教会の年配の方々が軒並み外地生まれなのは、
そうした地域性とも無関係ではない。
それでこの地域には、そうした親の時代から
住み続けている人たちが多く、地域に対する愛着が深い。
「老人会に逆らっては何も出来ない」、と
冗談交じりに語られる、そんな地域である。
いまの場所から離れてしまえば、子どもは転校しなければならず、
住み慣れた地域社会からも切り離されてしまう。

 とはいえ、狭い親類のアパートで、
人に頭を下げながら生活し続けることにも限界があるし、
プライバシーも確保されない避難所の床で、
思春期の子らを寝起きさせ続けるのも痛ましい。
かといって、「今後も余震に警戒」と云われ続けるなか、
倒壊の危険がある家屋で寝るのは、もっと恐ろしい。
かくして車中泊の人数は減らず、
そうした人たちには、物資や配食も行きわたらない。
それじゃぁ家の修理を頼もう、と思っても、
「順番待ちだから、実際の施行は1年半先になりますよ」、
などと云われてしまっては、
いったいどうすればいいというのか。
熊本ではTVのブルーの枠も残ったまま
そんな自分の事情や生活の痛みを声高に叫ぶのは、
熊本人の流儀に反するし、
東に目を転ずれば、累々とした倒壊家屋の存在が、
自分の不満を吐き出させることを躊躇させる。
だからみんな我慢しているが、こころにたまった不満は、
なくなってしまうのではなく、ただ行き場を失っているにすぎない。
行き場を失った不満は漂流し、時にデマを増幅させ、
時に行政の窓口を困らせ、そして時が経てば、
今度は自分自身の心を蝕むようになるだろう。
 
がんばろう熊本・・・。
たしかにそうだ。
みんながんばって我慢している。
でも、みんなって、誰だろう・・・。
 
長い梅雨が、もうそこまでやってきている。

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