2010年5月1日土曜日

ほんとうの味方

詩編139篇11-12節

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

あなたは、森の中を歩いていました。すると、むこうから動物が一匹やってきました。その動物をやり過ごしてもう少し先に進むと、また一匹動物が出てきました。そして、さらに、森の奥へと進んでいくと、そこで最期に、また違った動物と出会いました。
しばらく前に、こんな心理テストが流行ったことがありました。ちなみに、最初に出会った動物は、まわりの人から見た自分の姿で、その次の動物が、自分自身が思い描いている自分の姿で、最期の動物が、そのどちらでもない、本当の自分である。これで、自分がどんなタイプの人間かということが判るというのです。

まぁ、そんなことをいっても、その時の気分次第で、きっと全然違う動物が思い浮かぶような気もしますし、それに、なんといっても人間というのは、複雑な生き物ですから、こんな簡単な心理テストで、そんなに簡単に人間の本質なんか、わかってたまるか、という気もいたします。けれども、わたしがこの動物の心理テストを面白い、と思ったのは、このテストで本当の自分が判るから、という訳ではありません。そうではなくて、このテストが、自分自身が思い描いている自分の姿の他に、本当の自分自身があるのた。自分が思う自分と、本当の自分は違うのだ、ということを前提にしているところです。

わたしたちは、他の人が見ている自分の姿と、自分自身が考えている自分の姿の間に、大きなギャップがあるのを知っています。また、時には、自分がとてつもなく優秀で、他のひとたちは全く取るに足りないように思えることもありますし、またその逆に、ある時には、他の人たちに比べて、じぶんがあまりにも情けない、ちっぽけな存在に思えて、ひどく落ち込んでしまうこともあります。
けれども、自分が思い描く、そんなふうに揺れ動く自分自身ではなくて、それとは違った、ほんとうの自分がいるのだ、というのです。わたしも、もし、そんな本当の自分がいるのなら、ぜひ、会ってみたいと思いますけれども、その一方で、自分以上に自分自身を知っている、わかっている人なんか、いるわけないじゃないか、と、そういう気もするのです。そして、もし、そんな、自分自身も知らない、ほんとうの自分を知っている人がいるのだとすれば、それは神さま以外にあり得ません。
聖書は、次のような、名もない詩人の言葉を書き残しています。

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

これから先、わたしたちはどれだけの年月を生きるのかわかりませんけれども、その人生の途上で、自分が誰からも理解されていない、そして自分自身も、ほとほと自分に嫌気がさしてしまう、そのような出来事が、起こってくるかもしれません。それは、人生の暗闇を歩いているような、そのような時間であることでしょう。そのような、人生の暗闇に佇み、自分自身すら、自分の味方になってやることができないような、たとえそんな時がやってきて、友だちも味方になってくれず、自分でも、自分自身を信じることができない、そのように思える瞬間があったとしても、もうひとりの方が、最期まであなたの味方になってくれる。友だちよりも、自分自身よりも、もっと力強く、もっと信頼できる方が、最期まであなたの味方によってくれるのだと、聖書は、そのような約束を、わたしたちに語ってくれているのです。