2010年1月10日日曜日

「イエスの洗礼」

 主の洗礼日

「イエスの洗礼」

・ルーテル教会を初めとして、古い聖書の読み方を大切にする教会では、クリスマスを終えて3週間の後に、わたしたちはイエスさまの洗礼を覚えて礼拝を守ります。
・クリスマス以後のこの顕現節という季節は、わたしたちは、救い主としてのイエスさまが、わたしたちの間に現れ出られた、という出来事を覚え、礼拝を守っていくわけです。

・ルカによる福音書では、その冒頭の冒頭に「すべてのことを、順序正しく書」き表す、と書いてあるだけあって、ルカは物事の順序を大切にいたします。
・ですから、現れ出ると云っても、いきなりイエスさまが登場するわけではありません。
・クリスマスの出来事の記述の中でも、ルカによる福音書の構造では、まず洗礼者ヨハネの誕生が予告され、次にイエスさまの誕生が予告され、洗礼者ヨハネの誕生が描かれ、それからイエスさまの誕生が描かれる、というふうに、ルカは、物事の順番を丁寧に追いかけていくわけです。
・ですから、いきなりイエスさまが登場して教えを語られるのではなくて、まずイエスさまの先駆者であるヨハネが荒れ野で教えを語り始めます。
・今日の福音書の日課にも、少し含まれておりましたけれども、ヨハネの教えは非常に力強い教えであって、罪の許しを得させる悔い改めとセットになっておりました。

・イスラエルの民、ユダヤの人々は、自分たちの先祖のアブラハム以来、自分たちの民は神さまから特に選ばれ、守られてきた民である。
・今、この時代は、ローマ帝国の支配下にあって、またその領主であるヘロデのもとで不遇を託っているけれども、神さまは自分たちを見捨てられるような方ではないのだから、きっと近いうちに、あの英雄ダビデのような救い主を送って、自分たちをこの苦境から救い出してくださる、と、そういうふうに信じておりました。
・ですから、人々は神さまの言葉を力強く語るヨハネを目にした時に、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考え」たわけです。
・けれども、これで自分たちはこの不幸な時代から救い出されるのではないか、というふうに期待したユダヤの人々に向かって、このヨハネは、自分はそのような救い主ではない。
・わたしは水で洗礼を授けているけれども、その後から来られる「わたしより優れた方が」、「聖霊と火で」あなたたちに洗礼を授けられるのだ、と語りました。
・ところで、「洗礼を授ける」という言葉は、ギリシャ語で「バプティゾー」といいます。
・これは、水に沈めること、あるいは水に浸すことを意味する言葉です。
・ですから、わたしたちルーテル教会でも、あるいはキリスト教会はどこでも、水によって洗礼を授けるわけです。
・けれども、そこでこの水自体の中に、特殊な力が働いているわけではありません。
・前任者である藤井先生は、健軍教会で洗礼式が行われる時には、熊本の中では霊験あらたかな泉だといわれている、ゆるぎが池まで水を汲みに行かれたそうですけれども、別にこの水自体に魔法の力があるわけではない。
・また、頭から水を注ぐ儀式も、わたしたち教会が行うところの人間の業でしかありません。
・ただ、この水を通して、神さまの力が働くのだ、ということをわたしたちが信じる。
・そのことを、わたしたちが信じる時に、その信じるという行為を通して、神さまは私たちに聖霊を送って下さり、わたしたちを罪の苦しみから救いだして下さる、という約束を与えて下さるのです。

・さて、ところがヨハネは、そのように自分は水によって罪の赦しの洗礼を授けながら、自分の後から来られる方は、「聖霊と火」によって洗礼をなさる方だ、といいます。
・そして、わたしたちの教会では、教会が行うところの、水による洗礼 -それ自体は人間の業でしかないわけですけれども、その人間の業であるところの洗礼には、イエスさまの聖霊と火による洗礼が伴っているのだ、ということを信じているのです。

・火というのは、ルカが、使徒言行録の2章でも、聖霊が「炎のような舌」のように降った、と書いていますように、神さまから来る聖霊の働きの力強さの象徴です。
・そして、もうひとつの聖霊のことを、ギリシャ語ではプネウマといいます。
・この存知の方もおられると思いますけれども、これはギリシャ語では、風とか、息とかを意味する言葉です。
・つまり、「聖霊と火による洗礼」というのは、風と火による洗礼だ、というわけです。
・そうしますと、その後の17節で、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ」、籾殻を火で焼かれる、というふうに書いてあることの意味も、よくわかってきます。

・収穫して、脱穀した麦というのは、まだ籾殻と実とが混ざり合っている。
・それで農夫が、籾殻と実とを選りわけるために、手に箕を持って、それを風に当ててあおるわけです。
・そうすると、軽い籾殻は風に飛ばされて思い麦の実だけが下に落ちていく。
・それで、農夫は、残った麦の実をあつめて倉に入れ、飛ばされた籾殻は火に投げ込んで燃やしてしまうだろう、というわけです。
・ですから洗礼者ヨハネがイメージした「来るべき方」というのは、自分が使う水の中にではなくて、この「風と火による裁きの中に、人々を」沈める。
・そのような方だ、というふうにヨハネは、荒れ野で人々に語った、というわけです。

・さて、このように聖書に書かれた裁きのイメージについて、この説教台から語りますと、みなさんの中には、あぁ、今日はこういう話は聞きたくなかった。
・洗礼者ヨハネの厳しい話ではなくて、やさしいイエスさまの話を聴きたかった、というふうに感じられる方もおられるかもしれません。
・わたしたちの心は、日々の生活の中で色んな出来事にぶつかったり、すり減ったりして疲れてまいりますから、「いや、イエスさまというのは、わたしたちを火の中に放り込むような恐ろしい方ではなく、そうした火の中から救い出して下さる、愛に満ちた方なのだ。これは、聖書がちょっと間違っているのだ」、というふうに、理解したいと思うわけです。

・けれども、もしわたしたちが、「いや、この聖書の記述は間違っている。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデをすら恐れないような厳しい人物だったかもしれないけれども、イエスさまはそうではない、ただただやさしい方だったんだ」、というふうに決めつけた、とすれば、どうでしょうか。
・あるいは、「いや、確かにイエスさまは、裁き手としても、この地上にこられたけれども、その裁きというのは、神さまを信じない人たちのためのもので、自分はもう神さまを信じているのだから、信じない人たちが裁かれればいいのだ」、といって、あの律法に縛られたファリサイ派の人々のように、自分を安全地帯に囲い込んだとすれば、どうでしょうか。

・それでは、どちらにしても、神さまがこの世界を愛しておられる、ということから、目をそらすことになってしまうのです。
・愛することの反対は、無関心である、といいます。
・神さまはこの世界が、べつにどんな世界であっても構わない。暴力が横行しようが、人々が傷つけあおうが、そんなことは、どうでもいい、というふうには思われません。
・神さまは、この世界に対して、このわたしについて、無関心ではおられないのです。
・わたしたちに委ねられたこの世界と、そしてこのわたしとを、神さまは力いっぱい愛してくださいます。
・だからこそ、無関心の対極としての、神さまの愛のそのものであるイエスさまを、わたしたちのもとへと送り出されたのです。
・ですからやはり、イエスさまは、神さまの愛の象徴であると同時に、裁きの象徴でもあるのです。

・では、そうだとするなら、わたしたちへの慰めは、どこにあるのでしょうか。
・わたしたちは、何を頼るのでしょうか。

・それは、ここに神さまの深い計画がある、と云ってもよいと思いますけれども、実にイエスさまご自身が、裁く方であると同時に、裁かれる方でもある、という事実の中にあります。
・洗礼者ヨハネは、罪の赦しのための洗礼を人々にさずけました。
・そしてイエスさまは、ご自身が裁きをつかさどる裁き手で方でありながら、罪ある人々とともに、このヨルダンの流れの中にその身を沈め、ご自身がその洗礼を受けられる方となられたのです。

・イエスさまは、日々、罪とともに生きるほかないわたしたちのただ中に身を沈められ、そしてわたしたちと一緒に洗礼を受けられました。
・それは、裁く方であるイエスさまご自身が、わたしたちのところに、裁かれる方としても、こられた、ということを意味しています。

・このイエスさまの洗礼の出来事は、イエスさまの公の生涯の、一番最初に描かれました。
・そして、ここがイエスさまの公生涯の出発点である、ということは、ここがイエスさまの十字架への道の、出発点である、ということです。
・わたしたちの日々の過ちや、不義や、間違った行いというのは、確かに神さまによって裁かれるに値する行いであることに違いないでしょう。
・けれども、そのわたしたちの裁きの場で、イエスさまは、ともに裁かれる方として、わたしたちといっしょに裁かれて下さる。

・そして、わたしたちが受けた洗礼の故に、裁かれるわたしたちになりかわって、イエスさまが、あの十字架への道をあゆんでくださったのです。
・だからこそ、ここにイエスさまご自身が洗礼を受けられたことの意味がありますし、そして、わたしたちが洗礼を受けることの意味があるのです。

・ですから、わたしたちは、この風と火を恐れるのではありません。
・むしろ、この風と火が、わたしたちを神さまへと結びつけてくれる聖霊の働きであることを、ともに喜びあいたいと思うのです。
・この洗礼によって、わたしたちの罪が赦されたことを感謝するのです。

・わたしたちは、ヨハネ以上に、イエスさまの靴のヒモを解く値打ちもない者であります。
・けれども、あえていうなら、そのわたしたちの値打ちのなさの故に、イエスさまはわたしたちに風と火による洗礼を授け、その洗礼によって、わたしたちを神さまと結びつけて、イエスさまの弟子の群れに加えて下さった。
・わたしたちを、そのイエスさまに従って歩む群れとして、聖霊によって教会へと形づくって下さったのです。
・ここに、わたしたちの救いがあります。
・ですから、わたしたちは、わたしたちに与えられた洗礼を喜ぶことが出来ます。
・そして、ただただ、このことを信じて、喜んで、そしてこのわたし自身を、神さまの聖霊の働きへと委ねつつともに歩んでいきたい。
・そのように願うのであります。